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Posted by TI-DA at

那覇港内の地味な史跡巡り、臨海寺

2022年01月30日 / 歴史


拝見ありがとうございます。
このページでは、主に沖縄の史跡について
個人の見解を交えながら紹介していきたいと思います。

前回は、三重城(ミーグスク)に至る海中道路をご紹介しましたが、この回では海中道路の途中にあった臨海寺(沖宮)について調べてみようと思います。

↓↓明治初期の那覇港近辺。三重城に至る海中道路の途中に、臨海寺が確認できる。


↓↓現代の那覇港(那覇ふ頭)周辺。


↓↓古地図を重ねてみると、臨海寺(沖宮)はこのような位置関係になります。



調査を進めたところ、臨海寺の古い写真を見つけました。
↓↓アーチの門が特徴的です。

那覇市観光資源データベース(naha-contentsdb.jp/spot/555)によると、
「臨海寺はその建立年代は不明だが、1500年代中期、那覇の港を守るために作られた三重城に渡る長堤の途中に臨海寺はあった。元々は「沖宮」を管理するために置かれた寺・別当寺だった」とあり、また「琉球王朝時代は、外国からの来訪者を留め置く逗留所として利用されることもあり、日本人僧侶、日秀上人や英国軍人ベイジル・ホール(Basil Hall 1788~1844)などが臨海寺に逗留された記録がある」とのことから、訪琉外国人を一時的に待機させる場所としても使用されていたようです。
(長崎でいうと出島のような感じなのか…)

↓↓絵画にもその姿を見ることができます。(赤丸の部分)




拡大図


おそらくは、写真に写っているアーチ門の左側から三重城へ向かっていったのだということが絵画より推察できます。



補足ですが、那覇市観光資源データベースでは「明治時代に入り、那覇港と西の海に挟まれるように伸びていた長堤の西の海側が埋め立てられると、臨海寺は垣花町に移される。さらに昭和時代に入り、第二次世界大戦が勃発し沖縄戦が展開されると、その戦禍により焼失、のちに現在地である曙に場所を移し再建された」とあり、お寺自体は場所を変え存続しているとのこと。       

現在、臨海寺のあった場所は「沖宮拝所跡」として那覇ふ頭の構内に残っているようです。



那覇ふ頭船客待合所を過ぎた交差点から、構内へと入ります。


周囲はふ頭のコンテナ置き場となっていますが、小さな鳥居と石碑の存在が、その痕跡を物語っています。



次回は、屋良座森城(ヤラザモリグスク)について調査していきます。
お読みいただき、ありがとうございました。

こちらも併せてお読みいただければと思います。
https://a2250.ti-da.net/e12147401.html  


Posted by うぃーばる at 22:10Comments(0)

那覇港に存在した海中道路跡を辿る

2022年01月27日 / 歴史


拝見ありがとうございます。
このページでは、主に沖縄の史跡について
個人の見解を交えながら紹介していきたいと思います。

前回ご紹介した三重城(ミーグスク)ですが、本来の姿は海中道路を経て沖に突出した形態をとる要塞でした。 しかし現在は周囲の埋め立て進み、環境が大きく変化しています。
この回では、三重城と、接続されていた海中道路が現在どのように陸に取り込まれていったか調べてみようと思います。

↓↓王国時代の那覇港。 三重城は沖に突出している。


↓↓明治初期の那覇港近辺。那覇市街側から橋で繋がれた海中道路で本島側と接続されている。


↓↓現代の那覇港(那覇ふ頭)周辺。


↓↓古地図を重ねてみると、三重城と接続されていた海中道路はこのような位置関係になります。

現代は埋め立てが進み、海岸線が大きく変化しているためなかなかイメージがつきませんが、かつて三重城へ向かうには那覇市街側から「小橋、大橋、臨海寺(沖宮)、仲ノ橋、仲ノ三重城、ツキ橋」の順で海中道路を通過していったようです。

そんな三重城ですが、明治期の比較的早い段階で埋め立てが進んでいったようで... 


↑↑こちらは「那覇港修築計画図」という、明治中期頃のものと思われる資料です。この頃には既に、三重城に至る海中道路におおよそ沿った形で「西の海」の埋め立てが進み、小橋の分部は細い水路になっていることが確認できます。 また小橋以降の橋は消滅していることが分かります。

↓↓三重城周囲の一部は「第百四十七銀行埋立未製功地」という表記があり、まさに埋め立て工事が行われている最中のようです。またツキ橋が撤去され、仲ノ三重城~ツキ橋間は「琉球形船舶碇留所」となっています。


↓↓仲ノ三重城があったと思われる位置から三重城方面を撮影した写真。 手前に見える石垣との間が「琉球形船舶碇留所」の出入口であり、かつてはツキ橋が掛かっていたと推測されます。


しかしなぜ埋め立ての際、この部分だけ残して船着き場にしたのでしょうか。
ここからはあくまで私の推論ですが、ヒントはツキ橋の存在ではないかと考えます。
↓↓絵画に見るツキ橋です。 橋の下から水が流れている様子が確認できます。

思うに、ツキ橋直下は水流により底がすくわれて多少の水深があり、そのまま埋め立ててしまうよりはバースにしたほうが当時の土木技術としては適当だったのでは...? とういのが私の推論です。 

ちなみに現在「琉球形船舶碇留所」は幅が拡張され、バースとして存在しており、かつて三重城北側が西の海だったことの名残りを感じさせます。

↑↑船が停泊しており、現役で使用さてています。

はるか昔につくられた橋の存在が、現在の港の姿にも影響を与えているのですね。
次回は、三重城へ向かう海中道路の道中にあった臨海寺(沖宮)ついて調査してみたいと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。


関連し、こちらも併せてお読みいただければと思います。
https://a2250.ti-da.net/e12143950.html  


Posted by うぃーばる at 22:39Comments(0)

那覇港、三重城の姿を追う

2022年01月23日 / 歴史

 
拝見ありがとうございます。
このページでは、主に沖縄の史跡について
個人の見解を交えながら紹介していきたいと思います。

前回に引き続き、那覇港について、とくに三重城(ミーグスク)の変化に焦点を当てていきたいと思います。
三重城(ミーグスク)は那覇港を防衛する目的で、対岸の屋良座森城(ヤラザモリグスク)とともに16世紀中頃に構築された要塞です。
明治初期の那覇港周囲の地図を見てみると、海に突出した三重城は健在であり那覇市街側から「小橋、大橋、臨海寺(沖宮)、中ノ橋、中の三重城、ツキ橋」の順に海中道路で本島側と接続されていたことがわかります。             

絵画においても、いくつかの橋で繋がれた道路と三重城の姿を確認することができます。


埋め立てが進んだ現在では、三重城はロワジールホテルの裏側に現存し、一部石垣が残っています。


城内には、拝所らしきものが設置されています。


年代は不明ですが、まだ石垣が残っている昔の写真にも写っていることから、かなり昔から拝所は存在するようです。



三重城の概略図です。
※グスクへの道標copyright© 2018 Hirata chikudono Pechin All Rights Reserved. より引用


城内は史跡として管理がなされている様子はなく、植物の根などや風化によってほとんどの石垣は崩れてしまっていますが、辛うじて一部のみ現存する石垣が、琉球時代を感じさせます。



現在の入り口から左側には、旧城門の跡も残っており、一部石垣も現存しています。



そんな三重城の今昔です。
おそらく年代は戦前、奥武山方面に向かって撮影された写真と思われます。奥側には旧城門から伸びる海中道路が確認できます。↓↓

同じ位置から↓↓


こちらも戦前と思われる写真。海中道路から旧城門へ至る階段が見えます。↓↓

同じ位置から↓↓


現在、三重城周囲の開発のため旧城門の階段は撤去されていると考えられますが、その跡は現存しています。↓↓


三重城は琉球古典舞踊の曲中にも多々登場しており、割と人々には身近だったようで、
那覇港から出港する人を見送る様子をうたった「花風節」には
・「三重城に登てぃ 手巾持上げれば 速船ぬなれや 一目ど見ゆる」
三重城に登って 手拭い持ち上げれば 船足が速く 一目しか見えない)や、

公務で首里から薩摩へ向かう道中をうたった「上り口説」には
・「又も廻り逢ふ御縁とて 招く扇や三重城 残波岬も後に見て」
(また巡り合うご縁と願い 招く扇に三重城 残波岬も後に見える)

逆に薩摩から琉球へ帰国する道中をうたった「下り口説」には
・「あれあれ拝む 御城元  弁の御嶽も打ち続き 袖を連ねて 諸人の 迎へに出でたや 三重城
(あれあれ拝む お城元(首里城) 弁ヶ岳も続いて見え たくさんの人が迎えに来る三重城
などと表現されています。

倭寇の襲来や琉球侵攻で実戦を経験した要塞も、時代とともに役割が変化し、やがて那覇港へ出入港する船舶の見送りや出迎えの場所となっていったことが歌詞からうかがえます。
※そういえば、高校卒業の際はみんな若葉マークをつけて那覇空港へ出向き、県外への進学組の見送りに行ったのを覚えています。 きっと平成初期生まれのうちなーんちゅなら同感してくれるはずです。
三重城の見送りや出迎えの役割は、那覇空港へ受け継がれているようです。

次回は、三重城へ接続されていた海中道路について調査してみたいと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。


関連し、こちらも併せてお読みいただければと思います。
https://a2250.ti-da.net/e12143528.html  


Posted by うぃーばる at 20:54Comments(2)

那覇の隠れた史跡、三重城・屋良座森城

2022年01月22日 / 歴史

 

拝見ありがとうございます。
このページでは、主に沖縄の史跡について
個人の見解を交えながら紹介していきたいと思います!
今回は、那覇港についてです。
琉球王国時代から現在に至るまで我が島の重要な物流の拠点であり続ける那覇港は、はるか昔より港湾施設としての機能を整備されており、その歴史的構造物は比較的近代(戦前)まで見ることができました。
しかし、先の大戦による占領、及び戦後の開発により海岸線や地形が大きく変化しており、現在では王国時代の港の姿を見ることができません。

その往年の姿を、今回は調査していきます。

まず、明治初めの那覇港及び市街地の地図をご覧ください。↓↓

那覇市街側に「三重城(ミーグスク)」、対岸の小禄側に屋良座森城(ヤラザモリグスク)」という構造物が見られ、両方とも本島側へは浮道で接続されています。
また、画面中央付近、奥武山の少し上に「御物城(オモノグスク)」が見られます。

それぞれの構造物について調査したところ、
三重城及び屋良座森城は16世紀中頃に尚清王(第二尚氏第4第国王)が防衛目的で構築したとされており、三重城の名称は屋良座森城よりも後に建てられたので新しい城という意味で「ミーグスク」と呼ばれたことが所以だそう。
また屋良座森城は大口径の火器で武装していたようで、砲台としての役割を果たしていたと考えられます。

この2つの城は何度か実戦を経験しており、1553年、1556年には倭寇の撃退に使用され、また1609年の琉球侵攻に際しては海路から侵攻してくる日本側の艦隊を追い払うことに成功するなど、当時の記録からも海洋国家であった琉球にとっては非常に重要な施設だったことが伺えます。

それ故に、絵画などにはその姿が散見されます
・唐船図(17世紀)



・那覇港図(年代不明) ※補足のため加筆してあります



・年代、題名不明


調査を進めていくうちに、戦前に撮影された写真をみつけました。
・三重城(ミーグスク)





・屋良座森城(ヤラザモリグスク)




では、現在の那覇港(那覇ふ頭)、及び旧市街域を見てみましょう。↓↓

 これでは史跡の位置関係もよく分かりません...

なので現在の地図に、古地図を重ね合わせてみました。

 古地図と比較すると、かなり海岸線が変化していることが分かります。
三重城側はおおよそ浮道に沿って埋め立てられ、「西の海」は一部を除き消滅しています。
屋良座森城は戦後、米海軍那覇軍港施設の建設に際し撤去され、現存しません...

次回は、三重城に焦点を当てて書いていきたいと思います。

お読みいただき、ありがとうございました。  


Posted by うぃーばる at 02:21Comments(0)